2011年平泉が世界遺産に登録され、日本のみならず世界から注目を浴びています。平泉の世界遺産登録に尽力された、前東北歴史博物館館長 工藤雅樹先生はその著書「平泉への道」の中で多賀城などの古代城柵の関連性を指摘しておられました。注目を浴びる平泉と多賀城の関連を知っていただきたく、ゲートシティ多賀城は、多賀城政庁と平泉の関係の解説を多賀城跡調査研究所 古川さんに依頼し、寄稿してただきました。これを機に、平泉を訪れる観光客の皆さんにも多賀城に興味を持っていただき、多賀城政庁跡を訪れていただければと思います。お忙しい中快諾していただいた古川さんには、この場を借りて深く御礼申し上げます。
また、Web上には「世界遺産講座 平泉への道」のPDFファイルが公開されています。リンクから是非参照していただければと思います。

「多賀城と世界遺産平泉」

宮城県多賀城跡調査研究所 古川 一明

冒頭より

「2011年6月、フランス・パリで開催された第35回世界遺産委員会で、岩手県平泉の寺院・遺跡群が世界遺産リストに登録されることが決定されました。これは、登録を受けた平泉・岩手県のみならず、多賀城や宮城県、あるいは震災復興に立ち向かう東北地方全域に希望を与えてくれる出来事でした。
そうした思いの一方で『平泉と多賀城はあまり関係ないのではないか・・・』という疑問をもたれる方も多いのではないでしょうか。これまで、歴史学・考古学などの研究分野でも、多賀城と平泉の歴史は別々に扱われる場合が多く、一般の観光案内などでも両史跡の関係について紹介されることはほとんどないのが現状かと思います。しかし、多賀城・胆沢城を中核とする東北地方の古代城柵遺跡の展開を抜きにして平泉文化の生成を語ることはできません。平泉世界遺産登録に向けた準備作業のとりまとめ役として活躍され、一昨年急逝された故工藤雅樹先生が、その著書『平泉への道』(工藤2005)で強調されたように、平泉文化の創造には多賀城・胆沢城などの古代城柵遺跡の展開が深く関わっているのです。
それからもうひとつ、『平泉が繁栄するころには多賀城は廃れてしまった・・・』という印象をもたれている方も多いかもしれません。しかし、多賀城と平泉は異なる時代の遺跡ではなく、古代末という同じ時代に併存した『地方都市』とみることができます。平泉文化が花開いた12世紀後半、京の都では平氏一門がわが世を謳歌していましたが、多賀城周辺も東日本有数の地方都市として、多くの物資が集散し人々が集い賑わいをみせたと考えられます。多賀城と平泉は当時の陸奥国において、政治経済・文化の2大拠点として併存したのです。以下では、多賀城と平泉の連続性と同時代性について最近の発掘調査成果も交えながら解説いたします。『多賀城と平泉』の関係を考える際の参考としていただければ幸いです。」

寄稿文 本文ダウンロード(PDF 1.4MB)

外部リンク
平泉への道 第1回(PDF)
平泉への道 第2回(PDF)
平泉への道 第3回(PDF)

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