2011年3月11日に発生した東日本大震災では、多賀城市も津波で大きな被害を受けましたが、かつて平安時代に起きた貞観津波との類似性が指摘されました。
市内にある多賀城跡は、奈良時代から陸奥国府として存在し、城下には当時最先端の都市が広がり、東北地方の政治・経済拠点でした。貞観11年(869年)に起きた貞観地震・大津波で、都市は壊滅的な被害を被りましたが、その後見事に復興を遂げた経緯があります。
東北地方でこのような大津波を2度経験しているのは、奈良時代から続く史都・多賀城ならではのことであり、歴史研究の重要性を改めて感じる機会であったと思います。
これまであまり知られていなかった貞観津波と多賀城史跡について、ゲートシティ多賀城が東北歴史博物館学芸員・柳澤和明さんに論文の執筆を依頼し、御寄稿いただきましたので公開いたします。執筆を快諾してくださった柳澤さんには、この場を借りて厚く御礼申し上げます。
 

貞観地震・津波からの陸奧国府多賀城の復興

柳澤 和明 (東北歴史博物館上席主任研究員)

目次
1.はじめに
2.陸奧国府多賀城とは
3.貞観地震・津波による国府多賀城の被害
4.地形・地震・津波研究者による近年の貞観津波研究
5.貞観津波による国府多賀城の浸水域の推定
(1)砂押川における2011年3月11日の津波遡上
(2)貞観地震当時の仙台平野北部の地形
(3)国府多賀城における貞観津波の浸水域推定
6.貞観地震からの陸奧国の復興
(1)文献史料(『日本三代実録』)からみた陸奧国の復興
(2)発掘調査成果からみた陸奧国の復興
1)陸奧国府多賀城の復興
2)多賀城廃寺の復興
3)陸奧国分寺・国分尼寺の復興
7.おわりに

引用文献

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要旨

 貞観11年(869) 5月26日の夜、マグニチュード8.3ないし8.4以上と推定される巨大地震が陸奧国(むつのくに)を襲った。この巨大地震によって、家屋の倒壊、土地の地割れ、多賀城内の城郭・倉庫・門・櫓・築地塀などの倒壊、(多賀城)城下にたちまちに押し寄せた津波による溺死者1,000人など、土地・建物・道路・人など壊滅的な被害を受けたことが『日本三代実録』という当時の歴史書に記されている。
近年、貞観津波についての地形・地震・津波研究者による研究が進み、貞観地震発生当時の海岸線が現在よりも約1km内陸側にあり、現在の海岸線よりも4〜5kmまで津波が達し、貞観津波がこれまで東北日本を襲った最大級の巨大津波であることなどが判明している。
貞観11年(869)の貞観地震の当時、多賀城の城外には南北道路、東西道路によって方格地割された町並みが形成されていた。記録に記された溺死者1,000人はこの都市住民と考えられる。方格地割の形成された8世紀末頃、砂押川は東西大路以南では直線的に南流するよう河川改修されており、その南に大きく広がっていた潟湖を通って、七ヶ浜町湊浜が河口になっていたと推定されている。この河口から潟湖、砂押川を4km程遡った津波は、多賀城城下の方格地割やその周辺に大きく浸水したものとみられる。
国府多賀城は貞観地震・津波の影響を大きく受けたが、その後復興を遂げ、11世紀前半頃まで存続した。国府多賀城に附属する多賀城廃寺(観世音寺)や国分寺・国分尼寺も地震から復興を遂げている。

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